一水四見


 知人に「銘酒」ばかりを飲ませてくれるお店に連れて行ってもらった。

そこの主人と「酒談議」をしていると、主人は奥から三つのお猪口にお酒を入れて持って来た。

「それぞれの酒を飲み比べてくれ」と言うのだ。

勧められるがまま口に含めた。

 

 「『ガラス』の酒は『辛い』

  『素焼き』の酒は『甘い』

  『陶器』の酒は『普通』ですね」

 

これを聞いた主人は「ニタニタ」しながら言った。

「三つとも『同じ酒』です」(主人)

「ドキッ!」(筆者)

主人は話を続けた。

「人間の味覚なんていかにいい加減かということです」

「『味覚』で物を言っているつもりが、すでに『視覚』が判断して『味覚』の邪魔をしている」

味覚だけに留まらず、人間の「感覚」ほど「いい加減」なものはない。

その時々で違う。

同一人物でそうなのだから大勢になればさらに異なってくる。

そこに「良い」「悪い」という概念を導入すると、一層コンガラガッてくる。

人は、自分の「地位」「立場」に加え、その時の「気分」で多くの「物」を見ている。

 世の中では、いろいろな言葉が流行しているがせいぜい二~三年の命である。

マスコミは「システム構築」という同一テーマを「言葉」だけ変えて、さも新しい概念のように見せている。

あなたは五年前にどんな言葉がはやったか明確に答えられるだろうか。

「現状分析書」という成果物も何かモットもらしく「論理的」に記述されているように見えるが、作成者の主観が多く入っていることを忘れてはいけない。

「色々な物の見方の一つ」だと思った方が賢明である。

「現状調査」といっても、現場当事者が常に本当の事を言うとは限らない。

お客様は

 「ここだけの話ですが…」

 「本音を言うと…」

 「本当は…」

と無意識に「枕言葉」を付けて発言していることに注意しなければならない。

仏典に「一水四見」という言葉がある。

人間にとっては、ただの「水」でも、

魚にとっては「住処」、

極楽では「宝石」、

地獄では「血」

に見えるのだそうだ。

「疑心暗鬼」も似たような意味を持っている。

その時々の人の心の持ちようで「物」はどうにでも見えてくる。

「事実」「物」は何も変わっていない。

相手の話し方如何では「肯定的」にもなれば「否定的」にもなる。

だからと言って「事実認識」を「多数決」「力関係」で判断するのも変なものだ。

求められる能力は「知識」ではなく「見識」である。

言うのは簡単だが、なかなか…

しかし「意識」しなければ得られない「シロモノ」である。

 

これは「教えられるもの」ではなく「己の中で作り上げるもの」である。