ヨイショ


 上司に対するゴマスリの話ではない。

他に「ドッコイショ」「せ~の」と続けば、これは「かけ声」だと分かる。

人はなぜ「かけ声」をかけるのだろうか?

お年寄りは何かにつけて「ヨイショ」を連発する。

そして「あ~あ疲れた…」

一般的に三十代後半からこの症状が表れてくる。

 階段を昇る時の事を考えてみよう。

ご老人は左手で手すりを握り「よいしょ」のかけ声とともに左足を前に出す。

正確には二十センチ上に左足を上げる

 ちょっと医学的に分析してみよう!

動作手順は次のようになる。

 

 (1)階段を昇ることを決定する(脳)

 (2)「左足を前に出せ」と指示を出す(脳→足)

 (3)「左足を前に出すぞ/準備しろ」と指示を出す(脳→各器官)

 (4)「左足が前に出る」(足)

 (5)(4)の動作と同時に体全体が前へ動く(各器官)

 

 脳の指示を「足」「各器官」に伝えるのが「神経」である。

「ネットワーク」よりも早い速度で指示が伝えられる。

 若い時、脳からの指示が各器官に到達する時間は同一であり、各器官の「動作速度」も同一である。

これが老化とともに「伝達速度」「動作速度」が「バラバラ」になってくる。

体が前に進んでいるにもかかわらず、足だけが前に出ていない。

 

第1の見方(バラバラ)

第2の見方(つながり)

第3の見方(ひとつ)


そして、コケる。

「イテテテテ…」

「ギックリ腰」も同じように説明できる。

黙ってやると「筋肉痛」になりかねない。

ということは「かけ声」を発することによって全器官に

「準備体制に入れ!」

「全器官と同期を取れ!」

と言い聞かせていることになる。

(3)の指示をたたみかけている。

「こけた」のは誰が悪いのか?

「左足」だけの責任か?

よくあるこの責任論は「第1の見方」そのものである。

 多くは、このレベルでよく分からない決着がなされる。

「神経」によって「各器官」が結び付けられて(1)から(5)の動作が行われている。

これは「第2の見方」である。

じゃ、早く伝えなかった「神経」が諸悪の根源なのか?

「神経」の速度を高める手術は聞いたことがない。

「中間管理職の責任」はこのレベルに似ている。

「指示通りに部下に伝えられていないではないか!」

「『やるな!』と言った筈だ」

この手の指示は「やれ!」より「やるな!」の方が圧倒的に多い。

うまく行かなかった時の「準備工作」に他ならない。

うまく行った時は「俺が黙認したのだ!」

したがって、どちらに転んでも自分には責任が及ばない。

(1)から(5)までの動作がセットになって初めて「階段を昇る」という一つの行動になっている。

これは「第3の見方」である。

こけて、怪我をした左足に対して「脳」「両手」「右足」が怒るだろうか?

「左足」を罵るだろうか?

実際は即座に両手が左足をさすっている。

「馬~鹿コクでねぇ!」

「当ったり前でねぇか!」

そうなのだ!

「脳」「両手」「両足」全て自分自身の体だと考えている。

当然「左足」を責めるはずがない。

 幼児はこの事が良く分からない。

母親は次のように言う。

「太郎ちゃん」

「誰が悪いの?」

「このおイス?」

「ぺんぺん!叩いておいたから…」

子供はそれなりに納得して泣きやむ。

「かけ声」が「階段を昇る」という「ひとつの行動」をまとめる重要な役目を果たしている。

まとめる役目といえば「親指」も同じである。

「親指」は他の四本指と対面している唯一の指で「親指」がないと物が握れない。

物を握ることができて初めて「手」として認められる。

これも「第3の見方」である。

 大勢で何か大きな物を運ぶ時、全員で「せ~の」と叫ぶ。

これは、全体の力を一時に「集中」する為である。

「かけ声」がないと力が「分散」して物が動かない。

システム構築において一番欠けているのがこの「かけ声」的役割である。 

「第3の見方」をしていない!

 この「かけ声」は前話での「横糸」である。

また、システムは「個別システム」が「縦糸」「各器官」であり「共通システム」が「横糸」「神経」の役割をしている。

「総合システム」の悪さを「個別システム」「個別機能」だけに目をやって議論している。

悪さはもっと「違う所」にある。

 

「ハーモニー」の語源である「ハルモス」は「関節」を意味している。